昭和44年04月29日 朝の御理解



 御理解 第31節
 「信心する者は、木の切り株に腰を下ろして休んでも立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」

 「信心する者は、木の切り株に腰を下ろして休んでも立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」何時もどんな時でもどの様な事柄にでもお礼が言える心、そう言う心持ちになれよと、どうでしょうかねこの例えば御理解一つに頂きましても、成る程おかげが受けられんはずだとこう分からせて貰う。自分の都合の良い時には有り難う御座います、と言うけれども自分の都合の悪い事にはお礼所か心の中は、もうほんまにやるせないと言った様な、もんもんたるその日を送ったり、是ほど信心するのにと思った。
 とに角信心が面白くない、楽しゅうない、活き活きしたものを欠いてしまう、是では私おかげにならんと思うね。勿論、是は色々にこの御理解頂きますけれども、例えて言うならば「木の切り株に腰を降ろしても」と、木の切り株といやあ、まあいうならば、もうあんまり必要でないもの、所がむしろ邪魔になる様なもの、いうならば迷惑の様なもの、でも腰を下ろして立つ時にはとこうね。
 様々な例えば問題、様々な例えば難儀がありますけれども。その、難儀と云う事の実態というかね、難儀の本当の姿というものを、分からせて頂くとそれは神愛であり、いうなら神願御成就の為の段取りを、神様が付けておって下さってあるんだと、云う事分からせて貰わなければならん。昨夜の御理解に「神と仲良うする信心ぞ」という御理解を頂いたんですけれども、その神様との仲というのはどう言うな事だろうか。
 勿論お広前にしげしげと通わせて貰うというかそれこそ静かに、静かに神様を拝まして貰う又は熱烈に神様の前に御祈念を捧げる。どちらに致しましても矢張り神と仲様する信心だとこう思うです。神様に近付くと云う事ですから、例えば親子の仲夫婦の仲兄弟の仲様々その仲があります。その仲がこの悪いという、又仲が良いという、仲が良いという時にはどう云う事に成っておるかというとお互いが思いを。
 いうなら思いのたけを尽くし合っておる時ですね。全てを全員にとって、そしてその相手が喜ぶ様に、相手が喜ぶ様にとそういう心を付き合う、この使い合っておる時それが仲が良い時なん。ですからその仲が悪いという時はどういうことかと言うと、それと反対の事、こうするとがほんな事だけれどもそうしない、どころか疑ごうて来る。疑うどこだけやない、憎みあう。
 それが仲が悪いのである、だから「神と仲良くする信心ぞ」とは、神様の前に一心に御祈念をさせて貰ったり、熱烈な信心を、祈念を神様に捧げると云う事と同時にお道の信心では。そのここにも御座います様に、「木に切り株に腰をおろしても立つ時には礼をいうような」というのがお道の信心なん、だから夫婦の中にも兄弟の中にも、友達同士の中にもそこに信心がある、その信心とは仲をようして行く事である。
 仲をようして行くと云う事は、お互いの思いのたけ、いうなら真心を尽くしおおうていくという時、仲が良い時にはそれが出来る。所が何か一寸した事でそこに溝が出来る。疑いだす、迷う、もちろんそこから悩みが出て来る訳ですけれど。そして疑うどころではない先には憎しみあう。そこから仲がくずれて来る。いわゆる木の切り株に腰を降ろしても、立つ時には礼を言う様な心持ちになれよ。
 いかに仲が良かってもです。嫌な時もあるけれどもです。その嫌な事に対しても、お礼が言えれる様な心持ちになれよ、とこうおっしゃるんですから、そこから仲を保って行く事が出来る。昨日は、親教会の御大祭でこっからも沢山のお参りをさせて頂きました。まあ何時もの事ながら、丁度薬院の教会長です、杉尾先生のお説教でした。もう本当にやっぱり名人ですね。
 お話の筋も立派ですが、お話がもう実に長い長い時間を、もうそれこそねむけどんが付くことじゃない程に面白可笑しゅう、しかも有り難うお話をして下さいました中に、戸畑ですか、三橋さんてここにも二回程見えましたですね。青年教師の講師に見えたり、それから自分が北九州の信徒会を、全部バス何台かで、此処へ連れて見えられまして、ここでここの信心をまあ、見たり聞いたりして帰られた訳で御座いますが、その方ですまあ有名な信者さんです。
 その方が先日、福岡の高宮教会の御大祭に講師として見えられた。御信者さんでもやっぱりそのまあ偉くなるとね、あっちこっちの教会からお話に来てくれとこういう訳です、信心も立派であると云う事と、同時に御陰を事実受けておられると云う事。それが皆に矢張りまあ歓迎なさる元でしょうがです、その三橋さんの話しを頂きよったら「自分は、信心して思う様になった事は一遍もなか。」て言われたそうです。
 これだけ、信心させて貰いよるけれどもね、願うた事とか思う事が、思う通りになった事は、一遍もなか。けれども、現在この様なおかげを受けておると云う事。そりゃ大したなんか建築屋さんか、土木屋さんかですから、大変なおかげを受けておられます、大変な御用が出来ておられる。神様の御用といやあどういう仕事でも、まあほっぱらかしといて、神様の方へ御用させて貰うという程しな信心を頂いておられる。
 皆さん不思議でしようが信心しておって願うて、願う通り成った事が無いてそれでいてこの様なおかげを受けておるとこう言われる。私はそう言う信心が素晴らしいと思う。そんなら金光様の御信者さんの中には、思う様にならんでおる人が沢山ありましょう。けれどもその問題は思う様にならん時の信心が問題なんです。いわゆる木の切り株に腰を降ろしても立つ時には礼を言う様な心持ちがないからおかげにならんのです。
 ここでは、木の切り株といやもういわゆる招かざる客とでも申しましょうか。必要でない物、困った物、邪魔になる様な物、いうならば信心しとって、どうしてこの様な事がと言った様な事柄の中にでも、その事のおかげで信心が出来ますから、その事に対してお礼が言う訳なんです、そうでしょうが。難儀、その難儀のおかげで困った事のおかげで信心が出来ますと、その事に対してお礼を言う、そこに私はおかげの受けられる、受けられない本当のおかげが育っていかない基があるとこう思うです。
 三橋さん程しの信心をされる方がです思う様に成った事がない、けれどもこの様な御陰を受けておるこの様なおかげというのは、いうなら夢にも思わない様なおかげ。それこそ願い以上のおかげ願いは成就せんでも願い以上のおかげが成就しておる訳。お道の信者でおかげを受けておられる方達は皆ここを通った人達ばかりです。私が頂いている御教えの中にも願って願いが願い通りになるという信心はほんなもんじゃないと。
 願っても願ってもいうなら、右と願えば左、左と願っても、右と言った様な時こそ、私共の願いじゃなくて、神様の願いが成就しよる時だと仰る。だから、この神様の願いがまず、私共の一人一人の上に、成就しなければいけんのですよ。お願いして、右と願ったばってん左となった、左となったばってん右となったちゃもう心が暗くなる、寂しいというて信心は止めきらん。いや、信心を止める人すらがある。
 是では、矢張り木の切り株に腰を降ろしても、礼を言うと云う事ではない、その事に対してお礼が言える、思いその先にね。神の願いが成就する、その先に氏子の願いが成就する。その成就こそがね、思うた通りにおかげ頂いた事はないけれどもこの様なおかげを頂いておる、それこそ、夢にも思わない様なおかげが展開して来るのであるね。思いも掛けない、夢にも思わなかった様なおかげが頂ける。
 そういうおかげを頂かして貰えると言う所がです。今日のこの三十一節をようく、この神意というかね、この御理解の本当の意味を、ひとつ解からせて貰わなきゃいけん。礼を言う心持ちを忘れるな。それはどの様な中にあってもそうである。いよいよそう云う様な状態の時ほどに、神と仲ようする信心を、と言う所を一つ頂かにゃいかん。皆さん私がお話しておる意味は解かるでしょう。
 解かるけれども、実際自分の事になって見ると、そこにどうしてと言った様な。お願いしてもおかげにならんと、却って反対になると言った様な思いの方が、強てお礼を言う心持ちが無いというのはどうした事であろうか。私は昨日の杉尾先生のお話を頂かせてもろうて、もうここがクライマックスだと、私は考えさせて貰ったんですけども、もうどうにでも出来ん感動というか、もう本当にあの感動しました。
 所が御座います、皆さんもお聞きになって、どこをどう有り難く頂いたかと云う事は銘々の信心ですけれど、私はあの、こういうお話をなさいました。御道信心をさせて頂く者がね、あらゆる部門。例えば商売人なら商売人、勤め人なら勤め人、政治家は政治家、教育家は教育家そのそれぞれの部門に置いてです。最高の栄誉というか、最高のおかげというか、最高の地位にある様なおかげを頂かねばいけん。
 そしてはあぁあの人は偉い違う、人とは違うと思いよったら金光様のご信者さんじゃった。ああいう生き方、いわゆる教祖の教え基にした生き方を持ってです。それぞれの部門にその旗頭とも成らせて貰える様な、おかげを受けなければならんと言う、意味の事をお話になりましたです。例えば、部落なら部落でもです、一番の分限者にならないけんて。一番の人格者にならにゃいけん、それがね教祖の教えを基にしたら、一番の分限者になれる。一番の人格者になれる、そう云う言わば実現を、願わせて貰う信心。
 私その所のお話を頂かせて貰いよりましたら、もうどうにも出来ん程に感動するんです、是は私が、朝晩願わせて頂いて居る事だからでしょうと思うた。ここにご縁を頂いて信心の稽古なさっておられるね、少なくとも私、「親先生」と例えば言うて下さる方達、言うならば私の信心を、本気で頂きたいと思うておられる方達、そういう方達がですね、それぞれの部門において。
 最高のおかげを頂いて、いわゆる一人一人が、億万長者にならせて頂かなければならんという意味のです、願いを私立てておるからだと思うんです。しかも、それは神様の願いでもあるからです。そこに私の願いと神様の願いが一致しておる、私が願いよる事と神様の願いが一致しとる。皆さんの、それが皆さんの生活の上に様々な形になって現われて来るのです。ですから皆さんとても、はぁ今こそ神様の願いが成就しておる時だ、今こそ親先生のお取次ぎの働きが、この様にして現われておる時だとそれをね、合掌して受けれる信心にならなゃいけんて、
 お願いしよるばってん、先生は何をお願いして下さりよじゃろうかね、神様の願いと私の願いが一致した時です、私はあの感動が有ったんだとこう自分で思います。もう後から、皆見よってから、あぁ先生が肩震わせてから、感動しよんなさるのを見て、私共まで一緒に感動したちて昨日竹葉会、昨日あちら、昨日おかげ頂いておりましたからそう言うて居られました。と言う人が気の尽くほどに感動しましたね、
 そこで皆さん、今皆さんの願いというか思いが成就しないとか、いやむしろ反対の事になっておると云う事に対して、どういう信心させて貰うたらその事に対してお礼が言えれるかという所を極めなきゃ。木の切り株に腰をおろしても立つ時には、礼を言う、言わばいらん物、そう云う事は困った事、その困った事と思われる事の中にでも、御神意があるのであるから。神願が成就して行きよる姿であるから、その事に対しても、お礼の言えれる信心が頂けた時にです。
 三橋さんじゃないですけれども、「私が信心させて頂いてまだ思う様になった事が一ペンもない、けれどもこの様な御陰を受けております。」というて、人の前にでもお話が出来る様な信心。一つの事が願われる、その願いが本気でどんどん成就していく、どんどん成就していくというか、その思う様になる事だけに、焦点をおいて、一生懸命信心する人がありますね。自分の思う様になる事だけくらいの信心が。
 どのくらいの事かたかが知れてますよね。いわゆるお仕事大事というかね、お仕事は勿論大事だけでは有りませんけれども、少し金が溜まり出すと、これが百円のものが二百円になれ、二百円の物は三百円になれとその事だけに一生懸命いのちを掛けて、それこそ神様の事よりも仕事の方が忙しかちゅごたる風な生き方な、成る程それでもおかげ受けらますよ。そういう意味で一生懸命信心になっていきゃ。
 けれども私は今日ここで言う所はね、本当に自分の思う様になら無い様な事柄の中にでもです、お礼を言う様な心持ちが育って行くと言う粉と、そこから生まれて来るおかげはですもう私共夢にも思わない様なおかげ、私が願っておるのはそういうおかげを皆に頂いて貰いたいと私思うです。成る程、私が杉尾先生のお話しを聞いて、私はそれぞれのお話の、クライマックスというのは他にあったかもしれんません、私にとってはそこがクライマックスだった。ですから、私はその時感動した。
 あれは私の感動でなかった、天地の親神様の感動でもあったと私は思うのです。皆さんの願いが成就する前に、神様の願いが成就する、現にそこでそういう御おかげ受けておる人こそがです、そういう時はおかげではなくて、もう先にに徳を受けていきよるからです。その徳ならばあの世にもって行け、この世にも残しておけるけれども、ただ自分の願いがこうやって雪だるまの如く、段々太って肥えて行くというのだったら、日が照り出したら必ず解けますよ。
 自分の願いが思う様に成った事がないというのはですね、自分以上の願いを受けられて、初めてその粉とを分らせる為に、そう言われた事であろうと思うです。そりゃね、そうはっきりとまではなかと思うですね。矢張り神様じゃなあこの様な勿体ないおかげを下さってという時もなからなければ実際は人間は辛抱が出来ませんもんね、片一方にゃこんなに叩かれとるけれども。
 片一方の手では撫でさすりされる様な、おかげがあるから辛抱が出来るのです。合楽の人達皆そうでしょうがですからですほんなら、叩かれとる時に叩かれとるその事に対して、この神意を解らせて貰いお礼の言えれるその信心を、本気で極めて行かなければいけないそれには神と仲ようする信心ぞ仰る、いよいよその仲を育てていく信心神様と私、いわゆる真真心を捧げおうて行くと云う事が仲が良い事だと云う事ね。
 所がそれとは反対に疑い出す、迷い出す、むしろ悪口を言う、憎み合う、そこから仲が崩れて来る。これではおかげ頂く筈がないでしょう、こう言うと信心させて頂くと、こりゃいよいよ困った事ばっかり起こって来ると云う様な、感じも受けるのですけども実際は私が申します様にそうじゃない。その気になりゃ神様がそん時、そん時にですちゃんと、御陰なんですか、思う様にならんと言う様な事に対しましてもです。
 その気になって、神様に打ち向こうて参りますと、それがおかげと思わせて頂ける。いやそういう時程しに、真に有り難いと言った様な、心に出る様な心の上にも形の上にも、お繰り合わせ下さるもんです。その辺の所をひとつ大事にしたいですね。昨日、善導寺にお参りさせて頂こうと思いよる時に、丁度、鳥栖の上野さんがお参りされて、この頃から、あちらはあのう、長男ですから家をとらなければならない人だった所が、有る事情で弟さん、ここにやっぱり参ってきよります。
 上野はつみさんと上野はつえさんていうのが、あの樂のおかげを頂いているのが初枝さん、はつみさんというのが、ここに弟さんのお嫁さんなんです、弟さんが家を取っておりますから、有る事情の為だったもんですから、財産も分けて貰わずに出て、そいで家がないというのでもうその事の難儀の為にある教会におごかげをおかげといとったけれども。教会でも色んな問題がある事であって。
 もう教会に出入り出来ん陽な状態になって、そこにそいう問題が起こって来て始てここにご縁を頂いたのが初めてそれがもう十七、十八年も前の事でしょうか。合楽におかげを椛目から合楽にかけておかげを頂いく陽になってから。この人一軒の家をいうてももうおかげ話だけどのくらい私あるやら解らんと思うです、しかもそのあか抜けしたもういうならたまがる陽なおかげです、どのおかげでもそりゃもう本当にですね。
 私はもう皆さん当たりが、自分のおかげを受けて来た事をいうと、例えば今いう私が申します陽なその思う陽にならないと言った事のない程しのおかげです。もうそらですからよく言うでしょうが、どこどこの教会からここさん来てそこが間違うとるから、あんたおかげにならん。何てゆうな事言われて、道を間違えとるからなんて、そう言う事は迷信だ、ち言う事を一丁知らなゃ行けませんよお互いが。
 上野さんの一例を持ってしてもそうでしょう。そりゃもうほんなごてびっくりするごたおかげばっかりですよ、子供達はおかげで非常に出来がいい。今東京にお嫁に行っとります、長女なんかそりゃ成る程、水商売お寿司屋さんです、けれども何千件東京だけにお寿司屋があるか知らんけれども、天皇陛下のお家に行ってから寿司を握ると言った様な寿司屋は他にないです。
 そこの長男の嫁にそれこそ玉の輿に乗って、おかげを頂いたという訳です。二番目の息子が、今福岡銀行に勤めておりますが、家もなからなければ財産もない者が銀行が雇う筈がない、学校の先生が「福岡銀行は絶対に駄目。」だとい言われとった、けれどもおかげ頂いてから福岡銀行に就職のおかげを頂いて、さあ二番目の息子からも皆んな大学出とる。今あの自衛隊の大学に行っとりますなんかは。
 是はもう先日写真を持って参りましたが、其の組ですかね、何年か知らんですけれども、それであの何ですか、指揮を取るその程しに認められておるという、本当におかげを受けておる、この人がその大学に受験、あのおかげを受けた。受けた、あの合格した時なんかは、もうとてもとても、ほんなこてこりゃ了見にゃ及ばん事受けとるです。ほりゃまぁあぁたもう大変な事ですからね。
 あの大学に入学すると言う事は勿論頭も良いけれどもです。こういうおかげを頂かなければ入学は出来なかった、と言った様なおかげを受けておる、お父さんがあの年になってから、大学に通うた時もそうでした。自分方は間借り娘達は自分方でわら仕事、お母さんは行商お父さんな大学にやる、娘達が内職してからもうそれこそもう一つ一つお取り次ぎ頂いてお願をして一所懸命もう家族あげて、まあ信心させて貰うね。
 所が先日からその借っておる、家の大家さんという人が大変な人らしいですね、もうそれこそ、「さあ、もう出れ」と言う様な事が起こりましてね、所がその上野さんとしてはね、もうその家にやっぱ十何年住み着いた着いたものですから、もうなんていうですかね、執着が有る訳です、だから「おらもう死んだっちゃ動かん、」ちいうてからそのお父さんの方が嘆く云う訳ですね。
 あんまり酷い事云われたりされたりするもんですから、荷物なんかもほったくてしまう所通ったんです。だからここに家族中お願いに来ました時に、というてお金は、お金の蓄えとては一つもないていうわけね、そこで私が皆さんに申しました。「信心させて貰いよってね、その執着と言う事が一番いかんよ」私が申しました。向こうも都合が有っての事であろうからね、例えば私達が椛目から合楽に通うて来る。
 もう何十年間、先祖代代椛目に住み付いてるとじゃけん私しゃ椛目から動かん、と言うとったら現在のおかげ受けとらんじゃないか。もう本当に私はほんなこて、あのまだ椛目に一ぺんも行った事ない、一ぺん行った、それがバスに乗ってからその乗り間違えたもんじゃけん、椛目で下りにゃならん。だからそん時一ぺん寄った切りで本当に私はこの椛目なら椛目という所にあげんとこちゃ思わんばってんから。
 執着と云うものはさらさらない。その執着の心はおかげにならん、そらそれから一生懸命修行させてもろうておかげでもうスッキリしました。神様がやって下さるならばどう言う事にでも一つやらせて頂こう。という気になった。先日から、お話が有ってから、その鳥栖の山手の方ですけれども、場所はほんにちっと遠いんですけれども、とに角屋敷だけでも大変な広い屋敷ですが。
 二階上下合せてとに角やんがて二十近く位部屋があります。大きなお家、不服もないお家なんです。現在人が入って居られるのが、それが来月出られるから、そこを買わんかというて下さる人が有って、ところが、値段は安い三百万円する、屋敷と家全部、けれどもお金が無いからどうさせて頂こうか、と「ほんなら買わせて頂く陽に口約束だけでもいいからしときなさい」と私申しましたね。
 そしたら一番に五十万という手付けが打てれる様な、お繰り合わせを頂いた。次にはもう思いがけない所から百万円送って来た。そして子供達が一生懸命で「どうせ家を建てならんから」と言うて、兄弟で話あって貯めておったお金が有った。後はもうそれを抵当したっちゃ、お金は借られるというぐらいにおかげを頂いた。もうこの話だけでもね、私がまあ少し微にいり細にわたって、話すんなら、神様のおはたらきちゃ条件に、及ばんちゅうごたるおかげです。
 是は私は今日皆さんに言うて居りますね、思うあの思う様にならん事の方がおかげだという、いう意味の反対のこれおかげです。だからそういう働きも下さる事の出来れる神様であると言う事、けれどもね、是は例えばですよ、もしその人がです。おかげが受けられないとすんなら、はあ、あっちはどこどこ教会からきちゃとじゃけんで、おかげ落とさっしゃったと言った様な、迷信が迷信を生んで行く様な事に、なっちゃならんから、そう言う意味での私は、見本を見せて下さるんじゃないかと思うです。
 けれどもね、私が今日思う事はね、その成る程、本当に夢にも思わん陽なおかげになって行きよるけどもね。こういうおかげではね、しかし徳にはならんです、そういう例えばですね、そういうおかげの受けられると言う事は、皆さんでもです分っておられる訳でしょうが。不思議なこっちゃあるという程しの、おかげを受けられるけれども、それよりも、もっともっと不思議な事はです。
 私共が願っても願ってもいうなら、木の切り株にと言った様な、いらん信心しよってどうしてと言った様な時があってもです、その事に対してです。お礼の言えれる信心と言う事はです、神様のそれこそ不思議な働き、不思議な力というものをです解らせて頂いておかんと、これ程間違いのない神様であるから、これとても神様のご都合に間違いはないと思うから御礼が言えれる。
 今日どうでもひとつ私が、昨日善導寺の教会で感動させて頂いた。ここで私の信心を本気で頂きたい、私親先生と言うてここにお参りして下さる程しの方ならば、どうでも受けてもらわなゃならん、頂いて貰わにゃならんというおかげ、それはお互いそれぞれの部門においてです、最高のいうならその一人一人が億万長者的な、おかげの頂けれる信心を身に付けて貰いたいおかげを頂いて貰いたい。
 まず私がここではおかげの受け始め成る程、おかげを受けられるという事実をここに皆さんが焦点を置いて。受けられんのは、結局自分の思う陽に成らない事のお粗末な頂き方、いわゆる神様と仲良くする信心でなくて、神様と不仲になる様な信心が、内容にあるからおかげにならんのだと、悟らせてもろうて、神様の願いがただ今この様な形で成就しておるんだと云う事を一つ本気で解らせて頂く信心。
 そこから私は夢にも思わない様なおかげというものが頂けて来る様になるとこう云う風に確信しています、「信心する者は木の切り株に腰をおろして休んでもたつ時には礼をいう心持ちになれよ」そういう心持ちを私は目当てにしての信心、所がそれとは反対にどうしてこんな難儀せなならんじゃろうか、という時にはもうそういう心持ちがない時です。いよいよそういう時に、元気の出る様な信心を、本気でさせてもろうておかげ頂きたいものですね。
   どうぞ。